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札幌地方裁判所 昭和51年(ワ)1205号 判決 1982年12月21日

原告

石井佑

原告

三恵こと

石井三惠

原告

石井聖子

右法定代理人親権者父

石井佑

同母

石井三惠

右原告ら訴訟代理人

北潟谷仁

田中宏

被告

北島洋司

右訴訟代理人

黒木俊郎

被告

株式会社臨床病理センター

右代表者

信濃敏男

右訴訟代理人

坂下誠

伊藤信賢

太田勝久

被告

社会福祉法人北海道社会事業協会

右代表者理事

有末四郎

右訴訟代理人

森越博史

森越清彦

藤原栄二

主文

一  被告らは、各自、原告石井聖子に対して金四八八七万円及び内金四六八七万円に対する昭和四九年一〇月一日から、内金二〇〇万円に対する昭和五一年九月一二日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告らは、各自、原告石井佑、原告石井三惠に対して各金四二〇万円及び各内金四〇〇万円に対する昭和五〇年一一月二二日から、各内金二〇万円に対する昭和五一年九月一二日から完済に至るまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

三  原告らの被告らに対するその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、これを五分し、その一を原告らの負担とし、その余は被告らの負担とする。

五  この判決は主文第一、二項に限り仮に執行することができる。

事実《省略》

理由

一当事者と本件過誤の存在

請求原因1(当事者の地位」については全当事者間に争いがなく、同2、同3の各(一)(被告北島の母子健康手帳への原告三恵のRH式血液型の記載)については、原告らと被告北島との間では争いがなく、その余の被告との関係では、<証拠>によりこれを認め、同2、同3の各(二)(小樽病院での診療経過)及び同4の(一)、(六)(原告聖子の出生状況と退院)については原告らと被告協会との間で争いがなく、その余の被告との間では、<証拠>によつてこれを認め、同7のうち、原告らの血液型については、原告佑、訴外伸明、原告聖子がO型RHプラス、第三子がA型RHプラスであることについては原告らと被告協会との間では争いがなく、その余の被告との間及び原告三恵がA型RHマイナスであることについては、<証拠>によりこれを認める。

また、<証拠>によれば、昭和五一年一一月一二日になされた原告ら関係者の血液検査の結果は別表六記載のとおりと認められる。

二本件過誤の原因

右事実によれば、被告北島が原告三恵のRH式血液型を真実はマイナスであるのにプラスとする判定結果を原告三恵の第一子、第二子ともその母子健康手帳に記載していることは明らかであるところ、右過誤(以下「本件過誤」ともいう。)の原因につき、被告北島は右検査を依頼した被告センターが誤つた検査結果を報告したからであると主張し、被告センターは右血液型判定検査はいずれも被告北島から依頼されていないと主張して全面的に争うので以下判断するに、被告北島は被告センターが検査した際に依頼者に交付する検査結果についての検査報告書等の検査自体を証明するものをカルテや母子健康手帳に添付するなどして保存しておらず、他方、被告センターも検査の依頼を受けるときに依頼者から受領する「検査票」と題する依頼書や検査報告書自体の控えは保存していないとしていずれも当裁判所に証拠として提出されていないことは明らかであるからこの点に関し両被告にとり有利・不利な諸事情について検討する。

まず、被告北島にとり有利なものと考えられる点は以下のとおりである。

(1)  被告北島は、北海道大学医学部を卒業後札幌医科大学の医局に二年近く在籍し、この間、昭和三三年一〇月に医師の国家試験に合格、その後産婦人科医として中頓別町立病院、鵡川厚生病院、上富良野町立病院に勤務し、昭和四三年四月一日肩書地において産婦人科の北島医院を開業した経験を有する医師であること。

(2)  被告北島は、右開業の際千歳医師会から被告センターを紹介され、開業以来本件紛争の発生直後の昭和五一年一一月まで被告センターにABO式・RH式の各血液型判定のみならず、生化学・尿・血清等の血液に関する諸検査を依頼していたこと。

(3)  被告北島は、開業以来血液に関する諸検査を被告センター以外に外注したことがなく、血液型判定についての試薬の備えつけもABO式はあるがRH式についてはなく、従前患者が盲腸炎の疑いがある場合などに赤沈や白血球の検査をしたことがある程度でそれ以外の血液型に関する諸検査はすべて被告センターに依頼していたとその本人尋問で供述すること。

(4)  被告北島は原告三恵から昭和四七年一月一九日、昭和四九年一月一一日にそれぞれ採血したうえ、被告センターにその検査(内容はしぼらくおく。)を依頼していること。

(5)  採血量は梅毒検査のみを行なう場合でも、ABO式・RH式の各血液型の判定を合わせて行なう場合でもいずれも約五ccと同量であること。

(6)  被告北島は妊娠については妊娠の回数を問わず、梅毒検査、ABO式・RH式の各血液型判定検査を一括して検査依頼することとしており、梅毒検査のみを依頼したのは妊婦以外の患者でそれもまれである旨本人尋問で供述すること。

(7)  被告北島はRH式血液型については判定結果がマイナスと判明した妊婦に対しては血液交換等の設備を備えた病院に転医させており、RHマイナスの妊婦が継続通院することはないため、RH式血液型判定結果を妊婦の持参する母子健康手帳に記載するのみでカルテに特に記入することはなかつた旨その本人尋問で供述すること。

(8)  被告北島における原告三恵の第二子妊娠中の診療経過を記載したカルテには梅毒検査の結果を記載した上部に「RH(+)」の書き込みがあること。

(9)  被告北島は、開業に際し、諸検査の結果をカルテに記載するための検査項目欄のゴム印を作成したが、その中には血液型判定の結果についてのものはなく、右血液型判定については結果を欄外にすべて記入する必要があつたこと。

(10)  被告北島はカルテへの検査結果の記載方法について予め検査依頼の段階で「RH( )」、「型( )」などと記載しておき、検査結果が判明した段階で補充することもあり、原告三恵の第二子妊娠中のカルテもそのようにして記載したため( )内の記載とそれ以外の記載に使用したペンが異なる旨その本人尋問で供述すること。

(11)  被告北島は自己の患者で、被告センターの提出書証からでは、その検査を実施したことが明らかにならないが、しかし、カルテには梅毒検査及び血液型判定の検査結果の記載がある例として土田智津子、福江妙子、増川三恵子、畠山珠子、高田曜子、肝付久子の各カルテ類を証拠として提出していること。

(12)  血液型の判定を誤る原因については、判定自体の技術的誤り(判定用血清、判定方法、判定技術等の問題)と事務手続上の誤り(記載、連絡方法等の問題)が文献上指摘され、後者の誤りの方が多いことを指摘する文献もあり、前者の誤りについても、ABO式の場合については不適合輸血を防止するため裏検査が要求されるようになつてきており、昭和三〇年四月より昭和三六年四月までの東京大学付属病院で行なわれた約八一〇〇〇件の輸血のうち一七件の不適合輸血があり、そのうちABO式が一〇件、RH式が六件であつた旨の報告もあること。

(13)  血液型に関する抗体には生理的食塩水中でも肉眼的凝集反応を起こす完全抗体と高濃度の蛋白溶中や酵素処理を行なつたうえでないと抗原抗体反応が起こつているかどうかわからない不完全抗体があるうえ、血液型の判定に際してはそれぞれ凝集反応を起こしやすい至適温度があり、ABO式では4ないし20℃であるがRH式では37℃が適温とされ、さらに抗血清の力価によつて反応時間も異なり凝集能が弱いRH式の場合反応時間を長くする必要があり、抗血清と赤血球との混合比が不適当であれば凝集反応の判定を誤りかねない旨の指摘があるところ、RH式血液型不適合による新生児溶血性疾患発生に重要な役割を果たすのは母体血清中の不完全抗体である一価抗体とされること。

(14)  献血推進協議会が小樽保健所の協力で作つている「小樽市RH(−)友の会」の会員一五六名に原告ら訴訟代理人がアンケート調査をした結果によれば回答のあつた六九名中七名が検査機関で自己の血液型をRHプラスとする誤つた判定を受けた経験を有すると回答していること。

これに対して、被告北島にとり不利と思われる点は以下のとおりである。

①  北島医院における原告三恵の第一子妊娠中の診療経過を記載したカルテには原告三恵のRH式・ABO式のいずれの血液型の判定結果も記載されておらず、昭和四七年一月一四日の検査結果として記載があるのは梅毒検査の結果「(−)」、蛋白の判定結果「(−)」などに限られること。

②  北島医院における原告三恵の第二子妊娠中の診療経過を記載したカルテには血液型のうちRH式についてのみ「RH(+)」の書き込みがあるところ、被告センター代表者は本件過誤について原告佑から被告北島への申入れがあつた直後同被告から被告センターに原告三恵の検査結果の控えの有無の照会があり、被告センターには昭和四七年分については控えはなく、昭和四九年分については控えがあり、その後被告北島と打合せたが、二度目の打合せに際し、被告センターの訴訟代理人と事務担当者に同行して北島医院で被告北島の原告三恵の第一子、第二子のカルテを見た際には、いずれのカルテにもRHという文字自体はもちろんRH血液型の記載は全くなかつた旨その代表者本人尋問で供述していること。

③  被告センター代表者は被告センターにおける検査方法について検体である血液の入つた試験管(「スピッツ」ともいう。)を依頼者名・被検査者名・検査事項を記載した申込用紙である検査票(乙ロ第一号証参照)とともに依頼者から預り、右スピッツを検査項目により分類し、梅毒検査の場合は遠心分離器により血清を分離し、その際ABO式・RH式の各血液型判定の必要なものについてはそれぞれ「型」、「RH」とスピッツにマジックインキで記入したうえ、その一部を抜きとり梅毒検査に用い、残りを肝機能なり血液型判定などの必要な検査に用いて、検査部門別にほぼ一定の検査担当者の下で検査した後、血液型判定の場合には血液型検査成績と呼ばれる判定用紙と控えの双方に検査結果を書き入れており、検査途中で検体と被検査者名が入れ違うなどの事務上の誤まりはないとの趣旨の供述をその代表者本人尋問でしていること。

④  被告センター代表者は、被告センターにおける血液型判定の正確性について、ABO式については所定の検査用紙を用いたうえ裏試験も行なつておりRH式についてはいわゆる試験管法と呼ばれる方法によつており、検査液である抗D血清中に被検査血液を加えて混合したうえ遠心分離器で沈殿させ凝結の明らかに認められるものをRH(+)、それ以外のものをRH(−)と判定して、RH(−)の判定結果を得たものについては日本赤十字血液センター(以下「日赤血液センター」ともいう。)に再検査を依頼するなどして確実を期しており、いわんや二度も同一人について検査結果の誤りがあるとは考えられないことからも被告北島からRH式血液型を含む血液型判定の検査依頼を受けたとはいえない旨代表者本人尋問で供述していること。

⑤  被告センター代表者は、被告センターが昭和四四年一二月に有限会社として設立されて以来RH式はもちろんABO式の各血液型判定の結果について問題をおこしたことがない旨代表者本人尋問で供述していること。

⑥  被告センター代表者は原告らの本件過誤についての申入れ後、日赤血液センターに原告三恵のRH式血液型の再検査の依頼の有無を確認したが同センターから依頼を受けていないとの回答を得た旨の供述を代表者本人尋問でしていること。

⑦  被告センターから、昭和四八年一一月八日から昭和四九年一月一一日までの梅毒検査の依頼者名・被検査者名・測定結果を記載したものとして提出されている控のうち、昭和四九年一月一一日の欄には「北島、石井三恵」の記載があるのに反し、被告センターが昭和四八年一〇月八日から昭和四九年四月一九日までのABO式並びにRH式の各血液型判定検査の被検査者名・判定結果を記載したものとして提出されている控にも、また、昭和四六年一一月一二日から昭和四七年一月三一日までの梅毒検査の依頼者名・被検査者名・判定結果を記載したものとして提出されている控のいずれについても「石井三恵」又はそれに相当すると認むべき被検査者名は見当らないこと。

⑧  被告センターは被告北島からの血液検査の依頼内容について、昭和五〇年ころまでは梅毒検査のみの依頼が多かつた旨主張し、被告センター代表者もこれに沿う供述を代表者本人尋問でなし、前記各検査控を対照して被告北島関係分を抽出整理すると昭和四八年一一月九日から昭和四九年一月一一日までの被告センターへの依頼内容は別表二の①ないし⑤欄に記載のとおりとなり、梅毒検査者総数三〇名に対し、梅毒検査のみの検査者数が二六名にも達し、右被告センターの主張を裏付ける結果の記載内容となつていること。

⑨  被告センターは、昭和四八年一一月九日から昭和四九年一月一一日までの検査依頼を受けた医療機関毎の検査料の請求金額を計算、集計した日計表を提出し、被告センターは梅毒検査、ABO式、RH式の各血液型判定検査の各検査料は順に一四〇円、三〇円、七〇円であり、検査料は依頼の多寡、依頼者の特殊性等により増減されず、前記の血液検査の結果についての各控による依頼内容に右各検査料を乗じて検査料総額を試算すれば別表二の⑥欄記載のとおりで前記日計表の記載内容(別表二の⑦欄のとおり)とほぼ一致する(但し、昭和四八年一二月一八日は日計表上に検査料額の記載はなく、翌一九日に五九〇円として記載されているものを右一二月一八日の血液検査に対応するものとみた場合である。)うえ、試算額との差額についても被告センターの主張(別表二の各(注)記載のとおり)で説明が可能で、被告センター代表者もこれに沿う供述をしていること。

⑩  被告北島が被告センターに依頼したとして提出している<乙号証>について被告センター代表者は検査報告書の記載方法、記載手段が被告センターで発行するものと異なり、検査成績用紙も市販のもので必ずしも被告センターが発行したものとはいえない旨代表者本人尋問で供述すること。

右各事情のうち(6)と⑧、(10)と②とは全く対立し、いずれかの被告が明らかに事実を正確に反映していない供述をしていることになるところ、当裁判所は、医師が何らの検査報告に基づかずに検査結果の記載をすること自体は通常考え難いという経験則によりつつも、本件過誤自体が血液型の誤りという例外的な場合であり、被告センターの提出する証拠に疑点はあるものの信用できないことが一見明白でないうえ、医療経過を客観的に反映させ、その通常の事務処理過程で作成されるべきカルテに第一子の場合妊婦の血液型の記載がなく、妊婦における血液型(特にRH式)の重要性に鑑みれば、その不記載の不利益は診療行為の主体である被告北島において甘受すべきであるとの見地が、提出された限りの証拠からは導出すべき結論というべきかとも考えてきたが、被告センターの提出する各書証を含めた全証拠をさらになお仔細に検討した結果、被告センターの提出している書証は人為的な操作が加えられているとみるのが合理的であり、右提出証拠をよりどころとするところ多い被告センター代表者の供述も信用しがたいと判断するに至つたのである。

すなわち、被告センターの提出する前記血液検査結果についての各控及び日計表はいずれもその作成者が明らかでなく、右各検査控については綴られて一体となつているものではなく各頁に番号なども付されていないか、まれに記入があつても抹消されかかつていたりしていることに照らすと、右各検査控が検査当時作成されたものであるとしてもその全体であることの保証はなく、後に指摘する日計表との対比から推論したところなどからいえるところとなつてくるのであるが、右検査控が本来は同一日時の検査が複数頁にわたつており、継続頁には日時の記入のなかつたものであつたのを、その一部のみをとりだし日時を加筆したり一部の日時については除外するなどの作為がなされた可能性がなかつたとはいい切れず特に問題になる乙ロ第五号証の13については「1/11」の記載が冒頭にあることから、「1/11」の検査記録のすべてであるかのようにみえるが、前記のように考えると継続頁がなかつたとはいえない疑問点が存し、これに全幅の信頼をおき難く、なおこれらについては本訴提起前の証拠保全の際も提出されたと記録上から推認される右各検査控について、受命裁判官においては血液型控記載中に原告三恵の氏名の記載がない旨確認して、その表紙のみを、梅毒検査控については原告三恵の氏名の記載頁のみを各コピーすることになつたため、右証拠保全時における各検査控の内容と本訴に提出された検査控の内容の比較検討が当裁判所においてなしえなかつたのであるが、仮にその両時点におけるこれらの同一性が肯定されたとしても、当裁判所に顕出された右証拠保全とその記録より明らかな手続進行状況に弁論の全趣旨をあわせると、原告佑が本件過誤について被告協会に申入れたのが昭和五〇年一二月二九日、被告北島及び被告センターに申入れたのが翌三〇日であり、その際被告センターは原告佑に対し昭和四七年の際は資料不明で依頼の有無は分らないが、昭和四九年の際は被告北島から原告三恵のRH式血液型判定検査の依頼を受けていない旨説明するにとどまり、関係証拠を一切見せておらず、その後被告センターについて証拠保全がなされた昭和五一年六月二一日までには相当期間の経過があると認められ、そのため被告センターの検査状況をそのまま反映しているものと断定しうるまでにはなお至らないところとなり、次に、前記日計表についてもその作成時期及び作成の前提となつた書類が必ずしも明確でなく、記載方法も鉛筆書きで訂正の跡も各所に散見されるうえ、当裁判所に証拠として提出されたのは本訴提起後でも四年余りを経過し証拠調の大半が終了した後であるところなどから、これ自体のみで、他の証拠がどうあれ、被告センターの検査活動状況を正しく反映したものと確定させるわけにはいかず、そこで各書証の内容を比較検討するため、被告センターが被告北島について行なつたと同一方式により日計表記載の各医療機関を前記血液型、梅毒検査の各控から抽出整理してその検査内容を検討すると別表七記載のとおりとなり、その検査料の試算額と日計表の集計額とは同表にみるとおり全く合致しない(日計表記載の「高畠医院」「松嶋医院」「リハビリー診療所」に至つては全く右各検査控の診療機関名として掲げられておらず、「千歳田中病院」についても別医療機関と推認される「円山田中」「手稲田中」「札田中」のものがあるのみである。異なる略称名を使用していた可能性も絶無といえないまでも、各検査控記載の医療機関の略称からみてそれを肯定することも困難である。)ばかりか、昭和四八年一一月九日から昭和四九年一月一一日まで右各診療機関においては被告センターに梅毒検査に加えてABO式ないしRH式の血液判定検査の検査依頼をした者が皆無となり(但し、別表七の注(1)参照)、梅毒検査総数は、北島医院が三〇名であるのに、その余の診療機関では最大のものでも矢野医院の一八名にすぎず著しい差がみられるうえ、前記各検査控上は検査依頼がない日「ちなみに日計表の記載日からすると前記各検査控の記載日はほぼ一日おきである。)に日計表上は請求金額の記載がある(被告北島の場合は前記のとおり検査控上の昭和四八年一二月一八日分の血液検査の検査料と善解しうる翌一九日の金額記載を除けば昭和四八年一一月一五日及び昭和四九年一月五日の二日分に限られる。別表七にみる検査料額の不一致をすべて肝臓機能などの他の検査の実施で説明するのは、一部には梅毒検査の結果の記載自体からそれを推認しうるところがあるうえ、被告センター代表者の供述によれば全血液検査に対する血液型検査の依頼割合が件数、金額からみて五パーセントにもみたないということがあるにせよ、被告北島の場合が他検査がなくして右各検査控上の検査内容による検査料の試算額と日計表の集計額がほぼ符合するのと対比して著しく不合理である。)のに加えて、被告センター代表者が被告センターにおける検査料について社会保険の点数を基準とし減額しない(当時は一点が一〇円として計算されていたという。)と供述するところから推認すると各自の検査料額は少なくとも五の倍数であるのが原則的となるのではなかろうかと思料されるのに日計表には二円、六円、八円などの端数が存在するなど不自然さが見うけられるのである。このように関連書証が被告北島に関する部分についてのみ数値がほぼ符合し、その余の医療機関についての数値が全く合致しないことを、どうみるのが経験則の教えるところか、といえば、それは右各書証のある部分には、人為的な操作が加えられるなどしてか、あるいは好意的にみても誤認・誤記が何らかの原因で広汎に生じ、そのため、いずれにせよ右各書証で示すところは事実とは著るしく相違することになつてしまつているとみざるをえないものとなつてしまつているということである。

以上のような証拠の評価結果にもとづき検討するに、被告北島の供述と根本的に対立する被告センター代表者の供述は、その述べるところが事実に即したものである所以を前示各書証に記載あること、あるいは、ないこと、に求めること多多あるのであつて、右各書証には、否定的な評価しか与えられないとすれば、その供述も、被告北島の供述に比し、真実からよりかけはなれたところにあるとみるほかなく、他方前掲(1)(2)(4)(5)(9)(12)(13)(14)の各事実をもとに前掲(3)(6)(7)(10)の被告北島の供述を検討すると、右各事実や前掲(8)(11)の各証拠と齟齬するところは見受けられず、そして、これら全体をあわせて考察してみて、被告北島のそのころの処置にもさきに示したとおり、カルテの記載が不十分なところがあるなど、その記録の仕方には医師として適切でないところは見受けられるものの、妊婦に対する医療行為そのものには、その当時おかれていた産婦人科医としての立場からの血液検査に対処する行動として、もつとも蓋然性の高いところを述べるものと評価することもでき、そして、この供述と正反対の内容をもつ被告センター側の提出等にかかる各証拠に対する前示評価に照らすと、結局右(1)以下の各事実をもとに、被告北島の供述や前示(8)(11)の各証拠を総合するならば、被告センターが被告北島からの原告三恵についての昭和四七年一月一九日、昭和四九年一月一一日の各血液型判定検査の結果報告に際して真実はRHマイナスであるにもかかわらずRHプラスと誤つた報告をしたことが推認されるということができ<る。>

三原告三恵の原告聖子出産に至る経緯

前記一の事実に、<証拠>によれば以下の事実が認められ<る。>

(1)  原告三恵は第一子訴外伸明妊娠後、昭和四六年一一月二〇日北島医院を訪れ、被告北島の妊娠回数、最終月経、血液型などの問診を受け、その際血液型については従前記憶していたA型とだけ述べ、その後別表一の一にみるように昭和四七年三月一五日まで被告北島の診療を受け、その間、母子健康手帳中の「諸検査・計測の成績」欄中に「梅毒血清反応」「検尿(糖)」「検尿(蛋白)」の検査結果と合わせてRH式血液型を右手帳の備考欄に「RH(+)」と記載を受けた(検査報告書自体の添付はない)後、里帰り分娩のため右北島医院から小樽病院に転医し、昭和四七年四月一七日から同年六月二九日まで合計七回右小樽病院に通院し、河崎医師(但し、初診時のみは非常勤医師)の診察を受け、同年七月二日同病院に入院し、翌三日右病院において訴外伸明を満期正常分娩したが、右小樽病院においては、河崎医師は、既に被告北島が前記母子健康手帳の「諸検査・計測の成績」の備考欄に「RH(+)」と記載されているのを確認して問診の結果を加味してその血液型本人欄に「A型RH(+)」と転記し、そのカルテ(甲第二号証の4参照)にも右検査結果を転記するのみで小樽病院において改めて血液検査をすることはなかつた。

(2)  さらに、原告三恵は、第二子原告聖子妊娠後の昭和四九年一月九日北島医院を訪れ、被告北島から問診を受け、その後別表一の二にみるように昭和四九年三月一一日まで被告北島の診療を受け、その間、母子健康手帳に第一子の場合と同様の諸検査結果の一つとして被告北島からRH式血液型を右手帳の備考欄に「RH(+)」と記載を受け(検査報告書自体の添付はない。)、さらに夫である原告佑の転勤の関係から神奈川県横須賀市所在の聖ヨゼフ病院で同年四月一八日、同年五月二〇日に診察を受けその後里帰り分娩のため小樽病院に転医して同年五月二〇日から妊娠予定日である同年七月四日まで合計五回通院したうえ、同月七日午前一時頃陣痛が発起し、同日午前八時ころ入院し、当日は日曜日で河崎医師は自宅待機のため助産婦(その氏名は不明)の介助の下に同日午前九時三〇分ころ人工破水したうえ、同日午前一一時二七分ころ原告聖子を満期正常分娩により出産したものであり、出生当時、原告聖子は体重二九〇〇グラム、頭囲、胸囲とも各三三センチ、身長五二センチあり、母子ともに異常がなかつた(但し、このうち、原告聖子が昭和四九年七月七日午前一一時二七分ころ、小樽病院で満期正常分娩により出生し、右出生当時母子ともに何らの異常がなかつたことは原告らと被告協会との間においては争いがない。)。右第二子の妊娠・分娩に際し、原告三恵の診療に当つた河崎医師は被告北島が母子健康手帳の備考欄に記載していた「RH(+)」との検査結果を確認のうえそれについて原告三恵に問診するのみで自ら改めて同女の血液型の検査をすることはしなかつた。

また、原告三恵には、右第一子、第二子以外にはそれまで中絶はもちろん妊娠歴はなく、輸血歴もなかつた。

さらに、原告聖子出生後の小樽病院における症状経過は、小樽病院における原告聖子の診療経過を表わすものとして提出されている各書証の記載を前提とすれば別表八のとおりとなる(その信用性については後に検討する。)。

四原告聖子の小樽病院退院後の経緯と現在の症状

<証拠>によれば、原告聖子の小樽病院退院後の経過と現在の症状は別表九にみるとおりと認められ<る。>

五第三子の死亡に至る経緯

<証拠>によれば、次の事実が認められ<る。>

1  原告三恵は原告聖子に次いで第三子を妊娠し、妊娠三か月目である昭和五〇年六月一一日から神奈川県横須賀市所在の聖ヨゼフ病院において診察を受け(その後、瀧雅史医師が担当医となる。)、同年七月九日、同病院で従前妊婦に対してなされていた血液検査の結果、その血液型がA型RHマイナスであることが判明し、さらに、同年一〇月二九日の再検査の結果でもA型RHマイナスとされたため、その抗D抗体産生の有無を調べるため間接クームス試験を受けたところ陽性で既に抗D抗体が産生されており、同年一一月一〇日、同二〇日の母体血の直接クームス試験による抗体価がそれぞれ三二倍、一二八倍、にも達していることが判明し、同月二一日羊水分析がなされたが羊水が一滴も出ず、即日入院のうえ早期娩出法による出産が試みられることとなつた。

2  翌二二日午前一一時頃に陣痛を人工的に発起、同日午後四時四〇分頃人工破水させ、同日午後四時四六分廻旋鉗子により胎児(在胎三四週、身長四〇センチ、体重二五五〇グラム、頭囲31.5センチ、腹囲38.5センチ、胎盤一九四〇グラムを娩出させたものの胎児は泣き声も発せず呼吸をすることもなかつたうえ、分娩に立会つた医師・助産婦のいずれもが胎児の臍帯の拍動を確認しておらず、仮死の場合になされる蘇生術も施されることはなく、第三子の一般状態を記載してあるパルトグラムの児心音の最終記載は同日午後三時三〇分で、その後は他の事項については付加記載があるのにこの点についての記載はなく分娩直後の児の一般状態を示すアプガルスコアーも一分後、五分後ともに「0」と記載されているうえ、分娩直後の臍帯血の検査によると直接クームス試験は陽性であるうえ、血液検査結果内容も別表五記載のとおりであり第三子の著しい溶血状態を示していた。

そうすると第三子は死産であつたというほかはな<い。>

六新生児期の黄疸・RH式血液型不適合による新生児溶血性疾患についての発生機序・治療法・RH式血液型マイナス妊娠の管理について

<証拠>によれば以下の事実が認められ<る。>

1(一)  胎児は母体内の低酸素環境下にいるため成人に比して多くの単位体積(一立方ミリメートル)に対する血球成分を有し(成人が約四五〇万ないし五〇〇万個の赤血球を有するのに対し、妊娠一〇か月末期の胎児では約六〇〇万個とされる。)、出生により余分な赤血球を破壊(溶血)し、その中に含まれるヘモグロビン(Hbで示す。)が、毒性を有し、黄色で非水溶性・脂溶性の非抱合形ビリルビン(非結合型ないし間接ビリルビンともいう。)として代謝されることとなるが、右非抱合形ビリルビンの一定量は血清中のアルブミンと結合して血液中に存在し、グルクロン酸抱合酵素の媒介によりグルクロン酸と抱合して水溶性の抱合形ビリルビン(結合型ないし直接ビリルビンともいう。)となり尿や便として体外に排泄されるが、出生後四ないし五日位までの新生児では肝臓なども未熟でグルクロン酸抱合酵素の活性化が進まないので非抱合形ビリルビンのまま体内の脂肪分に富んだ皮下脂肪組織に沈着し新生児黄疸が発現するが、余分な非抱合形ビリルビンは脳の神経核にある神経細胞に沈着し、核黄疸(KIと略称されることもある。)が発生する。核黄疸が新生児期に限られる理由について、生後四日以後に防衛機構としての脳血管関門が成立しアルブミンで結合した非抱合形ビリルビンの透過が阻止されることが強調された時期もあつたが、現在では、アシドージス、低アルブミン血症などの新生児期に特徴的な核黄疸誘発因子の共存の方が重要視されるに至つている。

(二)  新生児期の黄疸については  いわゆる新生児黄疸(生理的黄疸ともいわれる。その強度なものが高ビリルビン血症と呼ばれ、厳密には新生児の体重と生後日数との関係も問題となるが、成熟児で血中の総ビリルビン値が一〇〇ミリリットル当り一五ミリグラム(以下特にことわらなければ単位体積の表示は省略する。)をこえるものはこれに該当するとされる。)、  溶血性黄疸(主としてRH式などの血液型不適合妊娠のための母児間同種免疫で発生する新生児血性疾患(一般にはHDNないしMhnと略称される。)であり、黄疸の進行状態も早くかつ重症である。)、  閉塞性黄疸(胆道の先天異常による先天性胆道閉鎖など新生児外科的疾患が含まれる。黄疸の程度もそれほど強くなく、血清総ビリルビン値も一〇ミリグラム前後のことが多いが、ビリルビンの大部分が抱合形ビリルビンで、胆道閉鎖による場合は尿中にウロビリノーゲンを欠如するうえ灰白色便となる。)  その他肝炎(この場合、子宮内感染では母体に伝染性肝炎のもとになる疾患が確定している必要があるとされる。)家族性の黄疸によるものが考えられるとされ、正常な新生児黄疸の定義づけは困難であるが、① 黄疸が最も強い時期は生後四ないし五日である② 最も黄疸の強い時期の血清総ビリルビン値は約一〇ミリグラム前後で一五ミリグラムを越えることなく、イクテロメーター値でも3.5以下である③ 少なくとも生後二週間すれば可視黄疸(肉眼で皮膚が黄色いと判断できる黄疸)は消滅するとの三つの条件が要求され、生後一、二日で発現する早発性黄疸は決して正常ではなく、その原因を究明するため厳重な新生児管理と診療体制が必要とされる。

(三)  核黄疸の臨床症状についてはプラーにより 第一期…筋緊張の低下、嗜眠、吸啜反射減弱で発病後おおむね一両日に見られる 第二期…痙攣、頭部後傾、嘔吐、落陽現象、発熱などで発病後一、二週間に見られる 第三期…痙性症状の消退で発病後一、二か月に見られる 第四期…黄疸後脳障害期とも呼ばれる恒久的な錐体外路症状の出現する時期で、早くても生後一か月経過後に見られ、アテトーゼ、凝視麻痺(特に上方視麻痺)、乳歯の琺瑯質異形成、聴力障害(振動数の少ない母音よりも振動数の多い子音の習得が困難である。黄疸後脳障害の約半数に認められるが、黄疸によらないアテトーゼ型脳性麻痺では全体の約八パーセントに随伴する症状にすぎないとされる。)という後遺症が認められる。

2(一)  一九四〇年RH式血液型が発見されたが、この血液型には血液型判定血清で陽性に判定できるC(rh')、D(Rho)、E(rh")の陽性三因子と右血清では陰性に判定されるC(hr')、d(Hro)、e(hr")の裏因子があり(()内は米国での記載方式)、国際的にはRH式血液型とはD因子のみを指すとされるが、母児間の血液型不適合妊娠による母児免疫疾患を発生させる因子は、D因子が最も重要で、その次にE、Cの各陽性因子とされている。

(二)  RH式血液型不適合による新生児溶血性疾患の発生機序は別表一〇にみるとおりであるが、これをD因子についてみるに、D(−)の母親がD(+)の胎児を妊娠した場合、胎児血と母体血とは胎盤の絨毛間腔を通して相互に物質交換しているものの通常は混合することはない(妊娠末期には少数ながら胎児の血球が絨毛管壁を透過して母体血中に遊走することは知られている。)が陣痛時の子宮収縮や胎児娩出後の胎盤剥離などにより絨毛組織が損傷して絨毛血管が破損すると胎児血は破損部位より絨毛間腔の母体血中に侵入し、母体血中に抗D抗体を産生させる(この状態を「母体感作が成立した」という。)。さらにD(+)の第二子を妊娠すると母体の血清中に存在する抗D抗体は絨毛膜を滲透し、胎児血内で抗原抗体反応をおこし溶血をきたし、新生児溶血性疾患が発症(この状態を「母児免疫」が成立したという。)し、その程度により比較的軽度な新生児溶血性貧血症から重度の新生児重症黄疸、さらに胎児全身水腫症により死亡するに至る。

(三)  RH式血液型不適合妊娠のための母児免疫の成立した胎児は、多くは分娩時には貧血状態にあり、出生直後から急速に黄疸が出現してくるが、貧血が臍帯血ヘモグロビン濃度一〇〇ミリリットル当り一〇ないし一四グラムで中等度の場合でも分娩後二四時間以内に黄疸が出現し、分娩後二四時間以後には皮膚黄染が強度に出現することとなる。

(四)  溶血が妊娠中に発生してその程度が高度な場合を胎児全身水腫症というが、この場合胎児は高度の貧血に陥るためしばしば子宮内胎児死亡を起こし、その多くは全身浮腫、皮膚の点状出血、腹水の貯溜、肝臓・賢臓・心臓の肥大と拡張を示しており、生産の場合でも右症状に加えて低蛋白血症・心不全・静脈圧の上昇がみられ、予後は極めて不良であるが、いずれにしても末梢血液に幼若赤血球である赤芽球・網球が著増しているのが血液形態学的な特色である(このため新生児溶血性疾患は従前「胎児赤芽球症」とも呼ばれていた。)。

(五)  抗D抗体産生の頻度は別表一一にみるとおり初回妊娠によるものは、諸家の報告例のうち最大のものでも約三パーセントに至らないが、第二回妊娠では最低のものでも約四〇パーセントをこえており、妊娠回数の増加に伴ない新生児溶血性疾患の罹患率は増加し、児の重症度も増加し、また、別表一二にみるとおり過去に出産した児における新生児溶血性疾患の程度が高度になればなる程次の妊娠が死産になる危険性が増すが抗D抗体産生後の初回妊娠で胎児全身水腫症となることはほとんどないことが指摘されており、抗D抗体が産生しやすい条件として母児間のABO血液型が適合であるとき  産科異常のあるとき  父の因子が「Dd」よりも「DD」のとき  母の因子型が「cde/cde」のとき  母がアレルギー体質のときなどをあげる者もみられる。

3  RH血液型検査の結果マイナスの妊婦に対しては、医師は、既往歴(流早産・人工中絶・前児の状況・輸血など)を詳細に問診し、配偶者の血液型を検査するとともに、妊娠五か月目頃より適宜間接クームス試験を行ない、抗体価が一六倍ないし三二倍以上であれば羊水分析を行ない、羊水分析の結果や胎児の成熟度などに合わせて分娩時期を決定し、必要があれば早期娩出をした後に交換輸血をしたり、妊娠中に子宮内輸血も行なうが、分娩に当つては臍帯血を採血して胎児のRH式血液型の判定と直接クームス試験により抗D抗体産生の有無を確認し、胎児のRH式血液型がマイナスで、直接クームス試験の結果が陽性であれば、直ちに次にみる交換輸血などの適切な措置をとる必要があるとされる。

4  核黄疸の治療法はその原因を問わず、アクスZやフエノバルビタールなどを筋注する薬物療法により血清ビリルビンの上昇を抑える方法(前者については一時用いられたが副作用があり、現在では一般には用いられていない。)や光線療法によりビリルビンを分解する方法もあるが、訴外伸明ないし原告聖子の各出生当時はもちろん現在でも交換輸血が一番確実で効率のよい方法とされており、その適応基準については血清総ビリルビン値が最も重要な判断基準となり、新生児の体重、周産期の異常(仮死・呼吸障害・アシドージス・低血糖症などの核黄疸発生を助長するような異常)などの影響を受けるが成熟児ではその値が二〇ないし二五ミリグラムが一応の限界値とされ、溶血性黄疸の場合には早期に発現してその進行速度も速いため特に迅速かつ適切な措置が要求されている。さらに最近では未感作のD因子陰性の女性がD因子陽性の胎児を分娩した場合には分娩後七二時間以内に抗Dヒト免疫グロブロリンを投与するば、抗D抗体の産生を防止しうることが判明しているが、D因子以外の場合や既感作の場合には有効な予防法は実用化未了や未発見のため利用しえないのが現状である。

七原告聖子の小樽病院における診療経過をめぐる証拠の証拠価値の検討

まず、小樽病院における当時の産婦人科の診療体制についてみるに<証拠>によると、小樽病院の昭和四九年夏頃の産婦人科の診療体制は、医師は常勤医である河崎医師と隔週毎に来院する若い非常勤医師の二名、看護婦は婦長を含めて一八名、助産婦四名、看護助手三名のスタッフで、右スタッフを新生児室に助産婦一名、看護婦三名、看護助手一名、病室(一八ベット)が看護婦七名(婦長を含む。)助産婦二名、外来が看護婦四名、助産婦一名と割り当て、看護婦の勤務時間と人員は、日勤の婦長を除けば、早出(午前七時から午後二時まで)二名、日勤(午前八時三〇分から午後五時三〇分まで)一一名、準夜(午後二時から午後一〇時まで)、深夜(午後一〇時から翌日の午前七時まで)二名の四交替制を採用しており、新生児管理については異常の認められない新生児の場合出生日を含め三日間新生児室で管理(新生児室での哺乳時間は原則として三時間おきで、生後一日目に河崎医師が新生児を診察する)した後、母親の病室に移して母子同室させ、六日目頃に退院するが、この間、検温を午前・午後七時頃、午後二時頃の日に三回、午前一〇時頃から午前一〇時三〇分頃までの時間帯内で沐浴させ、必要があればイクテロメーターにより黄疸値を測定する取扱いをしていたことが認められ<る。>

ところで、小樽病院における原告聖子の状況につき母親である原告三恵は退院直後の昭和四九年七月一五日に夫に郵送したとされるテープにおいて「病院に居た時にはすごく泣いたの。……だけど家に来たら全然泣かないの。飲んでは寝、飲んでは寝だからね」「四日目に親の側に来る訳け、その時は黄疸がひどくつてね。あの少し熱出したのもあるけどね」「先生が言うにはね、一週間でちやんと退院できたしね。検査したらね、血液が不適合とかじやない。そういう様な黄疸だつたら産まれてすぐ出るしね。そういう黄疸じやないつて言うわけ。ただ普通の黄疸よりもちよつとね黄色みがかつたからね、検査したけどね、検査の結果何ともないし今は普通になつたからつて言われたからね、心配はいらないの」と述べており(一般には当事者の提出証拠については特に慎重な吟味が必要であるにしても、原告聖子の小樽病院での発熱を訴えたのは原告三恵であり〔このことは当時既に母子同室であつた原告聖子が新生児室に戻されていることが看護記録から認知されることによつても明らかである。〕、右は、原告聖子の病名はもちろん病気に罹患したことすら判明していない時点での供述であつて信用性が高いといいうる。なお、右テープがその当時作成されたものであることは、その内容の鮮明さ、迫力に加えて、直後の昭和四九年一二月二六日の聖ヨゼフ病院での原告聖子に対する診断の問診の際原告三恵が原告聖子の哺乳力正常値はよいが家へかえつてからは少ししか飲まぬ旨述べていることがカルテに記載されていることからも明らかである。)、加えて、原告三恵、同聖子の母児間のRH血液型不適合の存在、原告聖子の小樽病院退院後の経過、現在の症状、第三子の死亡に至る経緯等に鑑みれば、原告聖子はRH式血液型不適合に基づく核黄疸によるアテトーゼ型脳性麻痺に罹患し、その典型症状に照らしても、小樽病院において症状に異常があつたのではないかと推認されるのにもかかわらず、被告協会側の各証人は原告聖子には一時発熱がみられたのみで何ら異常がなかつた旨異口同音の供述をし、さらに被告協会側から原告聖子の出生後の診療経過を表すものとして提出された各書証(カルテには出生・退院についての記載を除けば「昭和四九年七月七日新生児高ビリルビソ血症、七月一一日総ビ10.1 コートロシンZ0.2ミリリットル二日間投与により全快」とある以外に症状経過についての記載はなく、原告聖子の入院時の全身状態の把握には看護記録、とりわけそのうちの指示箋、新生児記録表(以下「温度表」ともいう。)の記載による以外にはない。)とこれを前提とする被告協会側の各証人の証言を全面的に原告聖子の当時の症状経過とする(別表八参照)ならば、証人橋本正淑の証言を待つまでもなく核黄疸を含めた重篤な症状経過を表わしていないのではないかとの合理的な疑いを容れうる余地がないとはいえなかつたが、関係証拠を仔細かつ総合的に検討した結果、被告協会側の各証人の供述がいずれも首肯しえない部分を含み、関係書証にも操作、ないしは、かなり時を異にしての記入がなされたことにより、事実を正確に反映していないところがあるとの疑点が生じてきたり、相互矛盾のあることが判明し、これと対比し、原告三恵本人尋問の結果等からの前掲推認事実などに則つて考察すると、少なくとも小樽病院の新生児管理には不備があつたと判断せざるをえず、被告協会の提出する関係証拠をそのまま診療経過とはなしえないと判断するに至つたのである。

まず、原告聖子診療経過をめぐる証拠についての疑点は以下のとおりである。

1  看護記録に添付されたビリルビン検査を含む各種検査票三枚については後日作成され、証拠保全による証拠調がなされた当日貼付されたものであること(この点は、原告ら代理人の指摘で証人藤井克子も当裁判所の証拠調の際にこれを認めている。)

2  右ビリルビン検査の原始記録(記載者は田附由美子)として当裁判所に提出されている昭和四九年五月一四日から同年七月一六日までの理化学検査ノート(甲第二号証の10、これは証拠保全時にコピーされた同年七月一一日から七月一五日分の三枚、六頁分のみであり、全体については甲第二〇号証として提出されている。)にはいずれも「石井 baby」の名称で同年七月一一日、同月一三日の各総ビ値欄にそれぞれ10.1、3.25の数値の記載があるものの、右検査ノートの記載期間中に他の新生児のビリルビン検査を行なつた旨の記載はなく(ちなみに成立に争いのない甲第一〇四号証によれば年間平均分娩数約一二〇〇件の東北大学医学部附属産婦人科においては血清ビリルビン測定をする例が毎日数十例あり、五例を下ることはないとされている。なお、小樽病院の当時の分娩者数については後記別表一三参照)、記載日時をみると「七月一〇日」の次に「七月一二日」、「七月一一日」、「七月一二日」、「七月一一日」「七月一二日」「七月一三日」となつており、原告聖子の検査が問題となる日の記載のみが期日が前後したり同一日についての記載が重ねてなされているなど全体として不自然さを否めないこと(なお付言するに、甲第二〇号証には頁数の記載があり前掲甲第二号証の10と対照すれば、証拠保全による証拠調後に付加されたことが明らかで、本訴の便宜のためと善解する余地があるのではあるが、証拠の信用性も問題となつている本件においては不用意という批判を招くこともあると思われる。)

3  原告佑が本件過誤について昭和五〇年一二月二九日に小樽病院の青木院長及び河崎医師に申入れをした後の昭和五一年六月二一日になされた証拠保全の際被告協会の検査室長荒井静夫は原告ら代理人に対し、原告聖子についてのビリルビン検査担当者は板倉美穂子と述べながら昭和五三年一月三一日になされた当裁判所の証人尋問の際には自分と既に昭和五〇年一一月頃に死亡した遠藤隆夫とが各一回ずつ検査したと供述するに至つていること

4  荒井静夫は自らが実施したとする原告聖子についてのビリルビン検査の実施方法について、証人尋問の際、七月一一日午前九時前後に指示を受けて新生児室で原告聖子の足のかかとにメスを入れ、毛細管から三本分の血液を検体として採血し、後は、酒精綿で採血部分を消毒して絆創膏を貼り、検体は直後イエンドラシック法により総ビ値の検査をしたが、コントロール血清による精度管理をしなかつた旨述べるところ、温度表の哺乳量の記載によれば、その直後原告聖子が原告三恵の病室に戻されていることも認められるのに、原告聖子の前夜の発熱を察知して看護婦に異常を訴えるほど注意深くわが子を観察しその安否を気づかつていたと思料される原告三恵が右絆創膏の存在に気づいていないのは不可解といわざるをえず、また、文献上ビリルビン検査の検査値の相当の誤差(約一〇ないし二〇パーセント)を指摘するものがあり再検査もままあるところ、原告三恵はその本人尋問において七月一一日の河崎医師の回診時に同医師から検査は二回し、また、黄疸は四度のうち二度で血液型不適合の黄疸ではない旨の説明を受けたと供述すること

5  温度表には藤井克子婦長の字で七月一一日の欄に「ブロードシリン一〇〇、インダシンSP1/4、W二二七〇〇、総ビリ10.1」、七月一三日の欄に「W三二七七〇〇 総ビリ3.25」(ブロードシリンは解熱・抗生剤、インダシンは解熱剤、Wは白血球数の意)の記載が、小笠原悦子看護婦の字で七月一一日、翌一二日の各欄に「コートロシンZ0.2」の記載があるものの、指示箋には七月一一日の午前九時(これは指示の時刻か検査結果判明時かは不明)に「ベビーワイセ、ブロードシリン一〇〇」(ワイセとは白血球数の意、指示についての記載者は不明で、二二七〇〇との検査結果を記載したのは桂看護婦と認められる。)、同日午後七時二〇分に「ベビーコートロシンZ0.2CC二日間河崎」(記載者は小笠原看護婦、記載自体では単なる指示を記載しているのか、指示に伴なう実施結果を含めたものかは判然としない。)と記載された末尾に「一三日W総ビリ至急」(記載者は藤井婦長)とあるのみであり、七月一一日にビリルビン検査をしたこと、七月一二日にコートロミンZを投与したこと(仮に七月一一日の前記記載に投与の趣旨も含むと解した場合でも)の各記載はなく、カルテには七月一三日のビリルビン検査値の記載は全くなされていないこと

6  藤井克子は、右指示箋末尾の「一三日W総ビリ至急」との記載がなされている理由についてその証人尋問において七月一三日は退院予定で一二日の午後の回診時に原告聖子にまだ黄疸が少しみられたから退院に間にあうようにと指示されたためと供述するがその供述によれば一般状態も平常であつた原告聖子に再度の検査を必要とした理由についてなお説得力を欠く憾みが有ること

7  温度表の欄外には「高ビリルビン血症」、カルテには「新生児高ビリルビン血症」の(いずれも河崎医師の字による。)、分娩台帳(証拠保全時の被告協会側関係者の説明では河崎医師が作成したと説明されている。)には「高ビ血症」と原告聖子の病名についての記載があるところ、証人河崎功はその証人尋問において右各記載はいずれも保険請求の便宜のためで本来は「高ビリルビン血症の疑」とすべきところであつたと供述するが、保険請求のために病名を記載すること自体はありうるにしても、記載目的が相異なるうえ保険請求のためにそのすべてが必要とされるわけではない三種の書類のすべてに記載がある病名をいずれも保険請求の便宜と考えるには余りにも不自然であり、さらに、現在では一般には使用されず、当時でもその使用が疑問視され、その投与基準が総ビ値一八ミリグラム以上とされていたアクスZ(商品名コートロシンZ)を温度表記載の総ビ値10.1ミリグラムで他に特段の症状がないのに投与していたとするならば極めて異例といわざるをえず、加えて、河崎功は証人尋問において原告聖子については感染症を疑つていたので白血球数を測定したとも供述するところ、一方でアクスZを投与しており、アクスZが副作用があり、感染症に対しては禁忌であることを指摘する文献もあることからみてその措置に疑問を抱かざるをえないこと

8  原告聖子の黄疸の程度について小樽病院での表記法は秋山・中村法によつているところ、別表四にみるとおり、温度表記載の最高値「++」(但し、七月九日分の記載については仔細に見ると三種類の異なつた筆記具により記載されていると見うる余地もあり、その記載が少々不自然である。)はイ値2.5ないし四までと幅があり、それが前掲もした平常値の範囲内にあつたとは必ずしもいえない(ただし、証人河崎功及び同藤井克子は、いずれもその証人尋問において、正常値であるイ値3.5の範囲内にあつた旨供述する。)し、イクテロメーターは生後数日目の黄疸を対象につくられたもので、黄疸が急速に進行しているときはイ値は総ビ値よりも低い値を出し、イクテロメーターはあくまで黄疸の簡便比色法であつて、ビ値を測定する方法ではないのでその守備範囲をよくわきまえて使用し、その退色を考え一年毎に新しいものと取り変えることなどが管理上重要であり、新生児室では新生児は肌衣にくるまつて顔だけしか露出していないので、顔だけの黄疸の判定により黄疸を軽く見る傾向がある旨の文献上の指摘もあること

そこで、さらに、原告聖子の出生当時の小樽病院における診療体制についてみるに以下のことが判明する。

①  昭和四九年一月ないし昭和五三年四月までの小樽病院の分娩者数を見をみると別表一三のとおりとなり、原告聖子が出生・入院していた昭和四九年七月は分娩数が一一四件でその年の月平均の1.5倍、他の年の月平均の四倍以上にも及んでいること

②  原告提出の助産婦記録中の入院期間の記載により原告聖子出生に際して原告三恵が小樽病院に入院していた前後の期間、同病院に出産のため入院していた妊産婦について整理するとその内訳・内容は別表一四のとおりであり、当時の産科のベッド数一八を超えていたことが窺われ、昭和四二年四月に日本小児科学会新生児委員会が新生児管理基準の一内容として看護婦の定員は、看護業務の場合は成熟児三名に対して一名、母子同室制の場合は母子1.5組に対して一名とすることが望ましいと勧告していることや市立小樽病院においては昭和五三年八月当時月間平均分娩数四〇件に対し、医師数三名、助産婦数一〇名、看護婦数一一名であることが認められることと対比し、診療方針の相違、社会における出生の増減等を考慮するとしても既に冒頭で認定した小樽病院の当時の診療体制とは相当なへだたりがあるといわざるをえないこと

③  小樽病院では、その病棟日誌(甲第二号証の3)によれば昭和四九年七月一〇日の欄に「渡部千代(昇天)」との記載があり(次に検討するように病棟日誌の信用性にも疑いを容れる余地があるが、人の死亡という対外的にも明白な事実についての記載部分は少なくとも信用しうると判断した。)、この直前に小樽病院において死亡事故が発生していたことが推認されるところ、理化学検査ノートの冒頭の五月一四日の欄に産婦人科の被検査者として記載のある「渡辺千代」と同一人物とも推測され、重篤な長期入院患者のため、産婦人科の診療体制に少なからざる影響を及ぼしていたとみうる余地もあること

④  病棟日誌上に記載のある入退院患者名と助産婦記録上に記載のある妊産婦名を対照すると、病棟日誌中の七月八日の「浜上サン」「渡辺康子」「大津芳」「鍛優子」、七月九日の「長岡照子」「寺沢美和」「平林恵子」七月一〇日の「霜田アイ」「渡部千代」、七月一一日の「藤田久子」「米林博子」七月一二日の「小川よし子」「三浦アヤ子」、七月一三日の「田中寛子」「二宮美智子」については右助産婦記録中の該当日はもちろん昭和四九年分の妊産婦名としても記載がなく、もしこれらの患者が真に入院していたとするならば、別表一四にみる以上に当時の入院患者が増加することになり小樽病院の診療体制にさらに問題をはらむといわざるをえなくなること

以上のとおり、被告協会の提出証拠については、いささか疑点があつたところ、右病棟日誌(甲第二号証の3)と助産婦記録(甲第二一号証)ないし分娩台帳(甲第一九号証)の対照の過程で次の事実が判明するに至つた。

まず、病棟日誌上、七月七日の欄に「工藤芙美子」の文字が一たん記載されたのち抹消されていることが明らかに示されているところ、助産婦記録によれば同人の入院期間は「昭和四九年二月二四日から同年八月四日(分娩日は七月二九日)」となつており、また、病棟日誌上、七月九日の欄に入院患者名として「下道久美子」、申し送り事項欄に「下道切迫早産腰痛まだ(十)絶安」と各記載されているところ、助産婦記録によれば同人の入院期間は「昭和四九年八月二三日から八月二九日(分娩日は八月二三日)」となつているうえ、助産婦記録上の右各分娩日は分娩台帳の記載日とも合致するところ、助産婦記録上では入院していないことが明らかな患者名を病棟日誌上に記載することは本来ありえないから、右各入院患者とくに下道久美子の入院時期についてはいずれかの書証が事実を反映していないことは明らかというべきである(なお、病棟日誌・助産婦記録・分娩台帳は本訴に先立つ証拠保全時に提示され、病棟日誌は看護婦が作成すると説明され、昭和四九年四月一九日から同年九月一三日分までの存在が確認され、原告三恵の入院期間である同年七月七日から同月一四日分までの写しが作成され、助産婦記録は助産婦福井愛子が作成したものと説明され、同年七月一日から同月一九日分までの二頁分と表紙の写しが作成され、分娩台帳については河崎医師が作成すると説明され、同年七月一日から同月九日までの二頁分の写しが作成されていることが、前掲甲第二号証の1ないし3・9に弁論の全趣旨によつて認められるが、証拠保全時に提示されたと思料される病棟日誌・助産婦記録・分娩台帳すら現時点でその全体を確認対照することは容易なことではない。)が、右下道らのような本訴との関連性の乏しい他の妊婦の入院日について医師と助産婦が各別に記載している分娩台帳と助産婦記録上の各入院日時が一致しているのであるから、その各入院時期の記入は事実にそつたものとみるべく、双方いずれも誤記されているとは通常考え難いから、この二つの記録と異なる記入内容を前示のようにもつ、病棟日誌には、なんらかの人為的な操作が加えられてか、そうでないにしても、その作成にあたり、なんらかの原因で広汎に誤認・誤記がはいりこんで、その記載内容は事実とは著るしくかけはなれてしまつているとみざるをえず、この判断は、④で示したとおりの右病棟日誌に入院患者として示されている者の氏名がその時期に対応する助産婦記録の各該当欄には、示されていないことがあるとの前掲事実からも、裏付けられるところであり、そうすると、病棟日誌などに原告聖子の症状について記載がないとの故をもつて、カルテ、温度表などに記載のある右聖子の症状のみがそのまま当時のものであつて他に異状がなかつたとすることはできないことになり、なおまた、見地をかえて、これまでの見方と逆に、病棟日誌の記載が正しいと仮定すると、そのときは、これに反する分娩台帳、助産婦記録のいずれもがさきに病棟日誌についてした判断をうけることになり、そうすると、そのずさんだといわざるをえないことになる記録状況からして、なお既に認定した小樽病院の当時の診療体制と照らしあわせ、およそ助産婦も担当医も妊産婦の入院期間はおろか分娩日すらも正確に把握しえないままで、診察等に当つていて、原告聖子の症状を的確に看取し、適切な処置をとりうるような態勢がそもそもとれていなかつた業務ぶりであつたことが推認され、原告聖子をとりあげた助産婦の名前が不明で、出生前後の児の一般状態が明確とはいい難いことと相まつてその診療体制の問題性が浮かびあがらざるをえないというべきである。

従つて、以上の証拠の総合検討によれば、少なくとも、カルテ、温度表、分娩台帳のいずれにも記載のある原告聖子の病名「高ビリルビン血症」は原告聖子の入院当時の異状を記載したものと考えるのがもつとも妥当な見方である。

八原告聖子の脳性麻痺及び第三子死亡の原因について

これまでの検討結果を総合すると

①  RH血液型は、原告三恵が陰性、原告佑、訴外伸明、原告聖子がいずれも陽性であり、夫婦間・母児間にともにRH血液型不適合が存在すること

②  原告三恵には第一子ないし第三子の妊娠以外に妊娠歴・輸血歴ともにないところ、第三子妊娠時には既に体内に抗D抗体が産生されていたこと

③  第三子が新生児溶血性疾患の最も重篤な胎児全身水腫症に罹患していたと考えられること(既に認定した妊娠回数の増加に伴なう激症化の傾向、第三子の溶血の程度、胎盤の大きさなどによつて認められる。被告協会は胎児の奇形・羊水の不存在などを理由に遺伝又は先天感染による軟骨無形成症の重症致死型である旨主張するが、鑑定人馬場一雄の鑑定結果にもみるように、本件全証拠によつてもこれを肯認しうる証拠はなく、高度の貧血や母児のクームス試験陽性成績を同症により説明することが困難とされていることからみても、前記認定をなすに妨げないというべきである。)

④  抗D抗体産生後の初回妊娠で第三子のように胎児全身水腫症が発症することはほとんど考えられないこと ⑤ 原告聖子に出生直後(被告協会提出の看護記録によつても出生の翌日である。)から黄疸が出ていること

⑥  核黄疸の第二期症状とも考えうる発熱等の症状が原告聖子の小樽病院入院中にみられること

⑦  河崎医師が副作用の強いアクスZを投与させて、ビリルビン除去のための治療をしていること

⑧  原告聖子がアテトーゼ型脳性麻痺と診断されており、核黄疸による脳性麻痺はアテトーゼ型となること

⑨  原告聖子には核黄疸による以外の脳性麻痺となる原因が特に考えられないこと

以上によれば、RH血液型不適合妊娠による新生児溶血性疾患のため、原告聖子は核黄疸を発症し、アテトーゼ型脳性麻痺に罹患し、第三子は胎児全身水腫症によつて死亡するに至つたものと認められる。

九被告らの責任

1 被告センターの責任

既に二で認定したところにより被告センターは原告三恵のRH式血液型の判定検査依頼に対して被告北島に対して誤つた検査報告をしたことが認められ、RH式血液型不適合による溶血性疾患は妊産婦がRHプラスの場合には起こりえないことからその後の担当医の妊産婦・新生児の管理体制に重大な影響を与え、RH式血液型不適合妊娠による新生児溶血性疾患のため、原告聖子にアテトーゼ型脳性麻痺という重度の障害を与え、第三子を死亡させるに至つたもので、これらの結果(以下「本件各結果」ともいう。)につき他の被告と共同して原告らに対し不法行為による損害賠償責任を負うというべきである。

2 被告北島の責任

既に三で認定したところにより、被告北島は、被告センターからの原告三恵のRH血液型についての誤つた検査報告を、その検査報告書も添付することなくそのまま自己の診療内容として母子健康手帳に記載したもので、自らも認めるとおりカルテにはRH式を含めた血液型の記載をすることはなく、RH式血液型については母子健康手帳をいわば自らのカルテ代りに利用していたものということもでき、右母子健康手帳の誤つたRH式血液型記載により後医である小樽病院の河崎医師をしてその旨の血液型検査を怠らしめ、同病院の当時の新生児管理体制の不備と相まつて、前記のとおり原告聖子に脳性麻痺の障害を与え、第三子を死亡させるに至つたもので被告北島のRH式血液型についての右取扱、母子健康手帳への記載方法等に照らせば、専門検査機関である被告センターの検査結果を信頼していたとしても、その検査結果を自己の診療内容とする以上、右検査結果が包含する本件各結果を招来する危険を引受けるべき立場にあると解するのが相当であつて、本件各結果について他の被告と共同して原告らに対し不法行為による損害賠償責任を負うと解すべきである。

この点、被告北島は小樽病院において新生児重症黄疸の症状を発見したうえ、交換輸血を含めた適切な措置を講じておれば本件各結果を防止しえたものであり、被告北島の母子健康手帳へのRH式血液型の誤まつた結果記載と本件各結果との因果関係はない旨主張するが、RH式血液型不適合妊娠による新生児溶血性疾患による核黄疸の発生を防止するには、妊産婦のRH血液型がマイナスか否かを判定することがまず基本となるというべきであり、右判定がマイナスという結果を得て、妊産婦の輸血歴、妊娠歴等を含めた妊産婦・新生児管理が強化される筋合にあり、妊産婦がRHプラスという反対結果を得ながら新生児管理によつてこれを発見するためにはRH式血液型不適合による新生児溶血性疾患に基づく核黄疸が急速に進行し、発病後一両日にして第一期症状を経過して不可逆的な第二期以後の症状に及ぶことからより高度な新生児管理体制が要求されることに照らしても前記因果関係を認めるに妨げないというべきであり、また、原告三恵が転医して被告北島の診療時には具体的措置をとりうる段階になかつたとしても、その母子健康手帳への判定結果の誤記載と本件各結果との因果関係の存在を否定することにはならないというべきである。

3 被告協会の責任

既に三において認定したように、被告協会は、その使用する河崎医師が前医である被告北島のRH式血液型についての誤まつた検査結果の記載をそのまま信じて、原告三恵が小樽病院に転医した第一子訴外伸明、第二子原告聖子の各妊娠八か月頃から出産まで相当期間がありながらいずれもその旨の検査をすることなく、また、その新生児管理の不備と相まち本件各結果を招来させたもので、前医のRH式血液型についての記載を信頼したとしても血液型が妊産婦の突発的出血や重症黄疸児の出生予防、特にRH式血液型不適合による胎児溶血性疾患については胎児の九ないし一〇か月頃に母親の血液検査により八、九割は早期発見が可能とする文献上の指摘などを考え合わせると血液型の判定は基本的かつ重要な役割をになつており、前掲甲第八六ないし第九九号証による前医の判定結果についての危険を引受けたといわざるをえず、本件各結果につき他の被告と共同して原告らに対し不法行為による損害賠償責任を負うというべきである。

被告協会は小樽病院におけるカルテの永久保存制を理由に原告三恵の第二子妊娠中の診断における血液型検査の不要を主張するが、右制度は同被告の内部的制度にすぎないうえより適切な診療のための基礎資料として従前の診断結果を利用する根拠とはなりえても、誤つた検査結果の記載をいつまでも信頼してよいという根拠とはなしえず、この観点からも危険を引受けたとみる考え方が妥当するというべきである。

さらに、被告協会は小樽病院において本件各結果の発生を防止する手段はなかつた趣旨の主張をし、原告は第一子訴外伸明出生の際抗Dヒト免疫グロブリン製剤を投与して抗D抗体の産生を未然に防止すべきとするが、原告提出のこの点に関する文献を整理すると別表一五のとおりとなり(同表中番号①ないし⑱が訴外伸明出生前に公刊されていたものである。)、文献上は右予防法がかなり紹介され、研究機関でも北海道大学医学部付属病院においても昭和四四年五月頃から投与例があり、昭和四七年一月一一日わが国でも抗Dヒト免疫グロブリン製剤の輸入が承認され、同年四月一〇日株式会社ミドリ十字により日本国内でも販売され、同年一一月一日には薬価基準にも収載されるに至つたものであるが、右薬品は非常に高価なうえ、未感作の女性の分娩後七二時間以内に投与する必要があり、D因子の不適合に対してのみ効用を有するものであることに加えて訴外伸明の出生時が昭和四七年七月三日で国内での販売開始から三か月間を経過していないことなどに照らせば、仮に原告三恵がRHマイナスであることが判明していたとしても一般病院である小樽病院において訴外伸明出生の際に抗Dヒト免疫グロブリン製剤の投与までを期待するのは困難といわざるをえないが、既に認定したところによれば、原告三恵の妊婦管理及び原告聖子の新生児管理を的確に行ないその一般状態(ビリルビン値を含む。)を正確に把握したうえで交換輸血の処置をしていたならば新生児溶血性疾患による核黄疸の発生を防止しえたというべきであるから被告協会のこの点についての主張にも理由がない。

一〇原告らの損害額

1  原告聖子の逸失利益

金一八三八万円

この点に関し、被告北島、同協会は、原告聖子の逸失利益算定にあたり家事労働相当額を加算するのは理由がないと主張するところ、ライプニッツ方式・民法所定利率による中間利息控除方法自体が逸失利益の現価算定について極めて控え目な数値をもたらすこと、幼児の損害算出に際し、男女間に格差を認めることが本来合理性に乏しいこと、家事労働の重要性等に鑑み原告聖子の逸失利益算出にあたり家事労働相当額を加算することには合理性があるというべきである。

2  原告聖子の慰藉料

金五〇〇万円

3  原告聖子の介護費用

100,000×12×19.5762≒23,490,000

この点に関して、被告北島、同協会は、原告聖子が重症の脳性麻痺に罹患していることから、平均余命を基準に介護費用を算出することは不合理と主張し、パールスタインの論文にもこれに沿うかの如き記載もみうけられるが、右記載の前提となる症例数や症度が不明であり、他の本訴に提出された脳性麻痺について記載された文献例にはこの点について明言した文献が見当らないことからみても前記見解が学会の定説とは認め難く、人の死期が予測しがたく、生命の維持自体は何ら支障のない原告聖子のような症状例については、平均余命を前提としたうえで、その介護費用を算定することは合理性があるというべきである。

さらに、被告協会は、原告聖子の介護費用は社会福祉制度による補充と長期間に亘る介護の定型化・慣れ等が期待されるから、これらの点をその算定に当つて斟酌すべきとも主張するところ、社会福祉制度は援護、育成又は更生の措置を要する者に対し、その独立心をそこなうことなく、正常な社会人として生活することができるように援助することに主眼があり(社会福祉事業法三条参照)、その補完的役割に照らすならば、その存在が、直ちに介護費用を減額することにはならず、介護の定型化・慣れも、介護者の高齢化、介護体制からみて限度があり、前記の本件医療事故と相当因果関係があると認められる損害をさらに減額する理由とはなしえないというべきである。

4  第三子の固有損害

原告らは第三子の逸失利益・慰藉料等その固有損害についても賠償請求するところ、既に認定したようにその医療経過に照らせば第三子は死産と解せざるをえず、したがつて同人の生産を前提とする原告らの主張には理由がなく、生産と同視すべきとする主張も法律上は理由がないといわざるを得ない。

5  原告佑・同三恵の慰藉料

それぞれ四〇〇万円

6  弁護士費用

各金二〇万円

7  なお、被告北島、同協会は、本件医療事故は原告らの素因に基づく結果発生を防止しえなかつたという医療の不成功事例にすぎず、損害額算定に当つて原告らの素因の寄与度、医療の難易等を考慮すべきとも主張するが、既に認定したように本件医療事故は、血液型判定の過誤及び診療体制の不備という医療の基本ともいうべき過失によつて惹起された医療事故であるから右被告らの主張は採用しがたいところである。

8  また、被告協会は、遅延損害金の始期は昭和四九年一〇月一日を基準とすべきであるとの主張をし、これは最新の賃金センサスを利用することは不合理とする趣旨とも解せられるが、現在に至るまでの労働名目賃金の上昇と貨幣価値下落傾向からみて、より正確な損害額に近づくように算定するためには、最新の賃金センサスを利用することも合理性を有するものというべきである。<以下、省略>

(谷川克 小野博道 岡原剛)

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